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(続)「水差し」と谷川俊太郎先生への質問


この広大で自然に恵まれたキャンパスなら、井戸を掘れば美味しい水がでそうだ。詩人の谷川先生が、その水を飲めば、さらに美しい詩を作るのではないか。

思えば、我々のご先祖様は井戸を掘って、長い間不便なつるべで井戸水を汲み上げていた。手漕ぎの井戸ポンプが発明され少しは便利になったが、この井 戸ポンプは、使わないでいるとピストンの中の水が無くなって水を汲み上げてくれない。そこでポンプの上から少量の水を入れ、激しく漕ぐと再び井戸水を吸い 上げる。それで最初に注ぐ少量の水を「呼び水」といったが、この言葉は後に大きな利得を呼び寄せる最初の行動を意味するようになった。 やがて水道の時代になった。誰でもタダ同然の豊富で安全な水が使えた。松下幸之助は誰にでも安く手に入る電化製品を作ろうとし、この考え方を「水道哲学」と呼んだ。

しかし、すでに日本は「水にコストがかかる」という時代を迎えてしまった。谷川先生の飲むペットボトルの水は遠いところから石油を消費してこのキャ ンパスまで来た。そのペットボトル自体も石油から作られ、処理をするにも石油を使う。今や自然は失われ、水道水は多量の消毒薬が入っているようだ。「空気 を汚しても、石油を消費しても安全なうまい水を飲むのだ」という時代になった。

でも、どこかで原始に帰らなければ人類は生きてゆけないのではないかと、皆が思い始めているかも知れぬ。 もし、私がこの広大なキャンパスを持つ大学の理事長なら、「歴史体験学部」とか「自給自足学部」を設け、井戸掘りを学生達と共にやってみたい。汗をかき、身体の節々を痛くして得た水を初めて飲んだ時の感動はものすごいと思う。そういう類の感動が、生命力の原点を考える「呼び水」になると思うのである。

「水差し」「呼び水」共に古い言葉になりました。今、水に関する言葉といえば「オミズ(水商売)」でしょうか? 先生がラッパ飲みした水は、どこの水だったでしょうか? 答え:「谷川の水」。「ピンポーン」 (記 2005.05)

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